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モーツァルト一考・代表 加藤明のコラム(K618)

もう30数年も昔の話。

高校卒業後いまで言う完璧なフリーターであった私はどうやって世間に参入したらよいか、見当のつかない無為で引きこもりがちな日々を送っていた。

そんなころ、実家に程近い電子部品工場への就職話が持ち上がった。どことなく方角が違うような気はしたが、羅針盤が壊れていた19歳は「働かざるもの食うべからず」と働き者の母に窘められたこともあって、ヒョイとその工場で組立工として勤めることになった。どう盛大の若い写真、特に女子工員が大勢いたし(!)、労働環境は悪くなかった。なんらの目標もないままの日々、しかし、結構仕事は真面目にこなしていた(と思う)

その電子部品工場に勤務して数ヵ月後の7月に、図らずも人生図らずも賞与をもらうことになった。確か1万円くらいは頂戴したと記憶している。

その生涯発のボーナスで働き者の母に何かプレゼントをした、という美談ではない。私はそのボーナスで胸ときめかせランラン気分でずっしりと重量感たっぷりのオペラのLPレコードを秋田駅前のショップ(東光レコードといった)で買い求めた。

そのLPが本稿の「魔笛」というわけである。どうして「フィガロ」や「ドンジョバンニ」ではなくパパゲーノになったはともかくも、当時5000円という大金を叩いて手にした初めてのモーツァルトのオペラ。緊張。興奮。夢中。感激。カール・ベーム指揮、ベルリンフィルのオーケストラで1964年ベルリンの教会で録音されたものだった。

名手ディースカウがパパゲーノ、ヴンダーリッヒが堂々と輝きに充ちたタミーノを唄い、ロバータ・ピータースの痛々しくも世界の果てまで轟くような夜の女王など、それぞれの歌声に私は全身全霊を略奪された。もちろん略奪の張本人はモーツァルトだ。

若き日の刷り込みは強烈で一枚目に針を落とした瞬間の「ヴぁーん、ヴぁヴぁーん・・・」というあの序曲の冒頭の幾分乾いた響きとその風景は今でも鮮明に想いおこすことが出来る。あの序曲の快い躍動感。モーツァルトナラではのフーガが作り出す喜喜とした生命感を。

初の賞与を貰ってから間もなく、チャッカリ工場を辞めてしまった不肖な若造に残された唯一のお宝「魔笛」はレコードプレーヤーがないというい理由で現在、無言のまま部屋の片隅に鎮座しているが、こうして私にとっては30数年に及ぶモーツァルト体験史のスタートを飾る象徴的な一組となっているわけである。

モーツァルトには脳を活性させる精神衛生上効果がみられると一般的に知られている。「魔笛」は私には希望薬としての効能があった。その後、多くの人に助けられながら勤め先を転々とし、家庭をもち、父となっていくプロセスにあって、わが「魔笛」は変わることなく私を元気付け、楽しませてくれた。

<所感二題>

その1.私は知る人ぞ知る音痴人間である。イメージ通りに唄えない。上手い、下手の評価の意気を越えている。笑い話のようだが、そんな私にもどうにか歌えそうな歌が「魔笛」にはある。しかも3曲も。

ひとつがパパゲーノの嘘っぱちの自慢話に夜の女王が罰としてパパゲーノの口に錠前をつけるが、その際に彼がうなりながら唄う「ウム!ウム!ウム!」

二つ目は、パミーナを探し出そうとする王子タミーノの魔法の笛に野獣たちが彼の周りに集まって踊りだし、さらにパパゲーノが奏でるグロッケンシュピール(銀の鈴)の響きにモノスタトス(黒人)と奴隷たちが退散するシーン。この退散場面の唄が「こりゃ、なんと素晴らしい響きだ・・・」とおどけながら「ら・ら・ら・らん・らん・らん・・・」と愛嬌いっぱいに合唱するあの曲。(この曲のあとはシューベルトの「野バラ」の旋律?)

そして三つ目は、パパゲーノとパパゲーナの有名な二重唱「パッ・パッ・パッ・パッ・・・・」。突然のパパゲーナの出現に意表をつかれたパパゲーノがどもりながら唄うあの名曲だ。この「パッ・パッ・パッ」に市民(庶民)の溌刺とし解放感、言ってしまえば救いのようなものを感じてきたのは、私だけだろうか。

この3曲ともあながち偶然とはいえないだろう。パパゲーノが私に友達みたいな親近感を抱かせるのはこうした言葉を越えた言語、音と言葉の究極の融合が一役かっていると思う。そして、お人よしでどこか間の抜けたパパゲーノのもつ庶民性は「魔笛」の前編に瑞々しい命を吹き込んでいるのだ。タミーノの魔法の笛とパパゲーノの魔法の鈴、この対照的な組合せがそれぞれの個性を際立たせて秀逸な構成であるが、「魔笛」が「魔鈴」(まれい?)であったもおかしくないほどパパゲーノの存在理由は貴重なのだ。

私が唄えそうな推奨曲3曲とも言葉(ここではドイツ語)を越えてモーツァルトの描く宇宙に同化し、さらに見事なシカネーダーの舞台づくりと振り付けがこの宇宙(お伽噺)に不思議なリアリティーをもたらせた。すべては1791年9月30日のアウフ・デア・ヴィーデン劇場(ウィーン最古の劇場)での初演から始まったのである。

その2.「1821年9月30日、「魔笛」初演21周年記念の日、アウフ・デア・ヴィーデン劇場のコーラスとオーケストラが聖ヨーゼ教会にて劇場葬を行った。彼らが歌い、演奏してくれたのはモーツァルトのレクイエムだった」(原研二著「シカネーダー」)

これは「魔笛」の台本作者で初演に際してプロデューサー兼ディレクターそしてパパゲーノ役を演じたエマニュエル・シカネーダーの死に因んだ一説である。シカネーダーは早くからドイツ語圏を転々とする旅芸人一座の座長をつとめ、1789年6月ウィーンに舞い降りた典型的なロココ人であったようだ。産まれはバイエルン地方ドナウ川近郊のレ^ゲンスブルク。モーツァルトより5歳年上で天性の芸人気質はどうやら遺伝的であったらしい。

著作権が確立していない当時のこと。実は「魔笛」の初演以前に「魔笛」と全く同じストーリーを持った「ファゴット吹きガスパー」という歌芝居がウィーンで上演され、かなりの人気を取ったらしい。元は「魔笛」と同じで種本である「ジニスタン」という台本から引用されていたから仕様のない話ではある。にも拘わらず「魔笛」は空前の大ヒットを飛ばした。何しろ初演の翌日10月1日から1ヶ月で24回の満員御礼の盛況ぶりだった由。かのベートーヴェンが「モーツァルトの最高作!」と激賞したとかゲーテは「魔笛」第二部を書き上げようと苦闘したとか。

台本そのものは展開に無理があったり矛盾が散見されたりで当初から表がんは芳しいものではなかったが、シカネーダーの趣向は飽くまでも「舞台は楽しく、客をいかに喜ばせるか」というところにあり物語の筋書きは二の次と考えていたようだ。

また当時から「魔笛」の意味するところは「ヒーローのイニシエーション劇」あるいは「女性救出のための試練劇」として一般に受け取られていたようである。要は物語の粗さを補って余りあるモーツァルトの見事な筆の運びであり、歓迎の楽しさをとことん追及し演出したシカネーダーの傑出したエンターテインメント性が絶大な「魔笛」人気の本質なのだ。

晩年のモーツァルトであってみれば、お金のため、という現実的な理由からシカネーダーに協力した動機はうかがい知れるが、後世の我々から観るとシカネーダー以上に「魔笛」が意味するところを的確にすみずみまで汲み取り、心底「魔笛」をいとおしく思い、その興業的成功を喜んだのはモーツァルトその人だったようだ。初演ではオーケストラの指揮やグロッケンシュピールをアドリブで演奏したモーツァルトの底抜けに陽気な姿こそ歌芝居「魔笛」が宿す得意で格別な作品の証明でもあろう。

初演から2ヵ月後のモーツァルトの死によって、二度とカップリングは果たせなかった。たった一度きりの天才同士の出会い、そしてモーツァルトがその命を削って作り上げた歌芝居は210余年を経た今も我々を天空から見守っている。

そう、モーツァルトが託した希望という名のメッセージ。「パッ・パッ・パッ・パッ・・・」パパゲーノの歌声とともに。