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モーツァルト一考・代表 加藤明のコラム(K618)

この話はモーツァルトに直接的には触れない話です。初めてモーツァルトと向き合った頃の17歳の筆者とその仲間たちが醸し出す、怪しげな機運を懐かしさの中に書き綴ったものです。17歳の私たちはK466(20番のピアノ協奏曲)、K550(40番の交響曲)、レクイエムなど単調の作曲家モーツァルトの世界にのめりこんでおりました。

1967年晩夏、高二でかなり年季の入った劣等生であった私は、千秋公園にほど近い「鎌田」という下宿屋に部屋を借りることになりました。生まて初めての一人暮らし。南秋地区の田舎から散じた心細さはありましたが、むしろ親元から離れられる解放感の方が勝っていたように思います。下宿先は進学校の秋田高校が近いため「鎌田」の4部屋のうち私を覗く3人が秋高生、しかも偶然全員が二年生という環境でした。

思い起こしますと、この下宿体験が17歳の私に与えた影響は正に絶大なものがありました。
この時期に私はドストエフスキーやサルトルや魯迅などの海外の文学、漱石や鴎外や太宰から開高、大江などの小説の一部に親しむことを覚えたばかりか、いまだに飽くことなく聞き続けているW.A.モーツァルトを知ることにもなったのですから(もっとも、ここで生まれて初めてタバコやビールの味をも体験させてもらったのですが・・・)この下宿体験がなければ、体得できないであろう宝物の山。いや、本当の宝物は何より「鎌田」の先住民たる2人の秋高生、マコト君とタテオ君であり、その二人の友人として後に登場するS君だったと思います。

さて、下宿生活にはいってすぐに、私の隣の部屋でくすぶっていたマコト君と私は気の合う友達になれるのを直感的に察知しました。二人の生い立ちに共通点が多かったのと、二人ともかなり同質の劣等感を宿していたからでした。いたってマッチョな彼は性格的にはシャイなところがあり、どちらかといえば後から皆についてくるようなところがありました。彼の武器は照れ笑いともごまかし笑いともつかぬ一流のニコニコスマイルでした。
もう一人の先住民であるタテオ君と初めてあったときの衝撃は鮮烈でした。マコト君から動機だと聞いていたせいか、その大人びたインテリ調のディベルティメントやアルファー波たっぷりのK448二台のピアノのためのソナタといったおしゃれで粋な曲のモーツァルトがピッタリだったと信じております。この意味でもいかにS君という人格が異質な存在であったかが、いまさらながらうかがい知ることが出来るのです(不思議とS君の音に関する記憶が抜けてしまっているのはどうしたものだろう、シルヴァ・バルタン以外は)

その後、いくつかの思い出を残しながら、私たち3人の探検隊と珍客S君にも、いよいよ高校と巣業という外圧が押し寄せてきました。この卒業はそのまま我らが奇妙な探検隊の解体を意味しておりましたが4人がそれぞれの道を歩むことになる、という点で下宿屋「鎌田」からの巣立ちの感がありました。
シャイなニコニコスマイルのマコト君、ニヒルでキザなタテオ君、そして希代の貴公子S君との「鎌田」での日々が私たちにもたらせたとてつもなく大きな収穫、影響をあの解体の日から反芻し、確かめる作業がそれぞれの青春の脳髄にゆだねられることになったわけです。
いよいよ巣立ちに望んで私たちはお互いに多くを語らなかったように思います。連帯感が薄れていたからではなく、これから自分たちにふりかかるであろう受験などの様々な自体への予測からくる緊張感が振り返ることを許さなかったからだと思います。 3人はそれぞれに別れの言葉を交わし、あっさりと実家に帰りました。
下宿屋「鎌田」から去る日、夜中まで喫煙しながら議論を交わすはぐれ者へ、さりげなくきづきを与えてくれたおばさん、突然女友達が舞い込んだときの躊躇しながらも暖かな気遣いが嬉しかったあのおばさん。そんな可愛らしく歳を重ねた鎌田のおばさんに私は心からお礼を言って巣立ったのでした。
もう二度と4人が一同に会することが出来なくなるということも知らずに。

下宿屋「鎌田」を巣立った私たち3人とS君は性格がそうであるように、それぞれまったく異なった進路を選択し、歩み始めました。
マコト君は神奈川の大学へ、タテオ君は衆議院の速記養成所へ、S君はフランス語の専門学校へ、当の私は毎日新聞の奨学制度を利用して自由が丘の専売所から予備校に通うというふうに。
それから何年かが経過し、互いに音信もなく、まだそれぞれが未来の自分探しに没頭しているなか、東京での目標を見失い、たこの糸が切れそうになって帰郷した私は、秋田駅付近の喫茶店の店員としてどうにか自立の道を歩んでいました。

そんなある日、不意にS君に関する耳を疑う驚くべきニュースに出くわしました。
それはなんと、あのかつての貴公子S君の突然の死亡を知らせるニュースでした。実は日本中を騒がせたあの「連合赤軍事件」永田祥子、森恒夫らによる総括の犠牲となった14名のなかにS君の名前があったのです。どういう経過をたどって彼が30名ほどの連合赤軍メンバーの一員になったかはわからないまま、ただその痛ましすぎる志の事実だけが重く私を襲ったのでした。
このとき私の中で明らかに何かが落ちる音がしました。その時点ではこの落ちるものの正体はおろか音色も判別できませんでした。
数年前の下宿屋「鎌田」での情景を必至に追いかけましたが正体不明のまま私は空洞の体を引きずりながら暮らしました。空洞間が立ち去ったとも、私に涙はありませんでした。
ただS君の声、笑顔、細身のスタイル、コーヒーとバターピーナッツとハイライトを差し出すシーンが痛みを伴って震えていました。いつも。私の奥底で。不条理作家カミュを愛読したS君の不条理な死。
私はS君の無情な死に様を知ってから以前にもまして喫茶店の仕事に熱心に取り組んでいきました。S君に何もすることが出来なかった悔しさを抱きながら必至に働きました。
そうするしか私の居場所がなかったからです。ただ、ひたすら全身全霊でコーヒーをた、サービスすることしかなかったのです。心からの笑顔を持って。

あのむごい不法に接したときに、私の中から落ちたものの正体、それが青春といわれるものであり、その青春の音色が鉛色の短調色であったことを私は数年たってようやく確信することが出来たのでした。

付記:数年の後、S君は1972年1月1日に殺害されたことを知りました。享年21歳。今年33回忌を迎えました。
また下宿屋「鎌田」はいつしか跡形もなく、現在はどこかの駐車場になっていることを近年知りました。