会報より
モォツァルトの「色」、私の思うこと 会員番号 K387 進藤 明子
音楽には目に見えない「色」がある?と常々思う。
一つの曲でも、自分の気持ち・体調などの状態によってその時々で全く違った感じに聞こえてくる。でも、どんな時でも音楽は一種の普遍性を持っていて、そのおかげでいつも感動を味わうことができる。
私はこの普遍性が「色」なのではないかと思った。かなり抽象的だが、個々の曲が我々に時代を超えて与えてくれる感動は、その曲の持つ普遍性によるものだと考える。そしてその普遍性は曲の作り手によって全く異なる姿となる。だからこそ曲の一つ一つに「色」すなわちカラーがあるのだと思ったのである。
このように思うから、私はモォツァルトの曲にもある「色」を感じる。
私が彼の曲を初めて聴いたのは、小学生の時音楽の授業で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を鑑賞した時だった。その時はひとえに優しさと優雅さを感じただけだった。しかし成長し彼の他の作品に触れ、また彼自身のこともわかってくるようになると、モォツァルトという人はこの世の感情を全て凝縮したかのような曲を次々と生み出してきたのだと思うようになった。喜びも悲しみも、あらゆるものの究極の姿が彼の曲に表れてくる。その姿は本当に究極、なのだけれど、あまりにも美しすぎる。よく対比されるベートーヴェンが感情をダイレクトに表し、その曲が多く「赤」なのに対し、モォツァルトはこれ以上はない位の最上の美しさでふんわりと曲を覆いながら、けれどこれ以上ない位の姿を折り込んでいる。???モォツァルトが作った曲の「色」。私の中ではそれは世にも稀な「瑠璃色」である。他の誰も持ち得ない宝石の色。彼だけの色として最も相応しいと思うのだが?。
私はまだ正直、まだ深くモォツァルトを知り得ていない為、他の方が思われるほど深くは語れないのが実際のところです。ですが、モォツァルトの音楽の素晴らしいところは、クラシックに全く疎い私のような者でも、素直にその美しさに惹きこんでくれるところではいかと思います。時や場所を選ばなければならない音楽が多い現代、彼の曲がどれだけ貴重な存在であるかをしみじみと考えさせられます。もっとモォツァルトの良さが皆に受け入れられることを切に願います。
そういう私は、これからも素人の素直な気持ちで聴き続けたいと思います。彼の曲を蘊蓄かたむけ、難しい顔で聴いたりなんかしたら、折角の感動が薄れてしまうのではないでしょうか?素人は本当に感情の部分でいいものを感じ取ります。この気持ちでずっとモォツァルトに触れていたい、というのが私の思うところであります。