会報より
クラリネット協奏曲とピアノ協奏曲イ長調 会員番号 K239 高橋文夫
もう30年以上も前のことであるが、私は学生時代、管弦楽部に入部しフルートを吹いていた。当初はロマン派の音楽が大好きで、ベートーベンやシューベルト、チャイコフスキーなどのレコードを聴いていたが、大学2年のある日、管弦楽部の先輩がモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調」のレコードを持って、私の下宿に遊びに来た。その頃ベートーベンに心酔していた私は、モーツァルトの音楽は尻軽で、軽薄で、ちょこまかと動き回る(大変な誤解!穴があったら入りたい!)ので好きになれないとはっきり言った。
先輩はあまり反論はせず、ただ「この曲には人生の奥深さを感じる。毎晩寝る前に聴いてみろ」と言って静かにレコードを置いていった。
思慮深い、尊敬していた先輩であったため聴かないわけにもいかず、仕方なくそれから毎晩寝る前に聴くはめになったが、聴き込んでいくうちに、明るいような哀しいような、
励まされるような癒されるような、不思議な温かい感情に包まれてしまう、天上と地上を行き交うこの美しい曲の虜となってしまった。
しかし、まだ他のモーツァルトの曲は馴染めず、いわゆる名曲と言われる10数曲が好きな程度であった。私が完全にモーツァルト気違いになったのは、大学4年と5年の時の定期演奏会がきっかけである。
4年の定期演奏会では、ベートーベンの交響曲第一番を演奏した。かの有名な「ベートーベンの交響曲」である。しかもその第一番を演奏できるとは大変な幸運であると期待を膨らませていたが、実際に演奏してみて愕然とした。これが音楽なのか。歌はどこにあるのか。各パートはまるで兵隊か機械のように扱われ、ただゴール目指して突き進んで行く。
それだけである。演奏が終わっても、ゴールしたという思い以外何も残らなかった。
その翌年、定期演奏会のメインとなったのは、モーツァルトピアノ協奏曲23番である。
練習を重ねるうちにあまりの違いに目を見張った。美しい音楽が弦楽器、管楽器、ピアノへと次々に受け渡されていく。フルートはTUTTI以外は2小節出ては休み、4小節出ては休みと流れの一部しか担当しないが、驚くべきことに、そのわずか2小節、4小節がすべて歌になっているのである!逆に言えば、わずか数小節といえども生き生きと歌わなければ音楽が壊れてしまう。何という繊細なそして完璧な音楽だろう!モーツァルトの明るく哀しい、温かい音楽に吸い込まれるように演奏を終えた後、私は完全なモーツァルティアンになっていた。
あれから30年、時代はレコードからCDに変わったが、やはり聴くのはモーツァルトである。他の作曲家と一体何が違うのか?最大の違いは、モーツァルトの音楽の根底には人類に対する深い愛情が流れているという点ではないだろうか。いかなる時に聴いても、
人の心を癒し、励まし、何故かほっとさせる魔法の力を持った響きなのである。