会報より
かたわらにモーツァルト 会員番号 K588 柳谷 尭
汽車の中で、私は時間つぶしによく好きな歌を歌うことがある。車窓を流れる風景を見るともなく見ながら、心に浮かんでくるメロディーを口ずさむ。もう四十年も前になるが(年齢がわかってしまう)秋田から能代へ帰る途中だった。車中はすいている。
菜の花畠に 入り日薄れ
見渡す山の端 霞ふかし
・ ・・・・
しずかな しずかな 里の秋
お背戸に 木の実の 落ちる夜は
・ ・・・・
歌詞がわかれば歌詞を、わからなければハミングでその歌の世界にひたりきりである。
「クロイツエルソナタ」の変奏曲のテーマ、もちろん歌詞はない。このテーマは私の大好きな曲の1つで、ベートーベンの真しな人間味溢れた人柄がじんわり伝わって来る。
さて、次はモーツァルトに来てもらおう。
前奏をゆっくりハミングして「アーア、アーヴェ アーヴェマリア・・・・」と始めた。
と言っても歌詞のわかるのはここまでで、あとはまたハミングである。澄んで諦観に満ちた晩年のモーツァルトの世界が側側と身に沁みる。
その時なんと、同じメロディーが聞こえて来た。女の声である。思わず声の方をふり向くと、通路をはさんで斜め向こうの席に女性が一人、にこりともせず、こちらに合わせて歌っている。若い・・・思わず私は歌うのをやめて
「アヴェ・ヴェルム・コルプス・・・・・」と言った。
「ええ・・・」
記憶はここでぷっつり切れたままである。
このあと、二人はアヴェ・ヴェルム・コルプスを終わりまで歌い続けたかどうか、どんな話をしたか、まったく白紙である。二十代の私のこの瞬間のどぎまぎを想像してください。たぶん、しどろもどろの対応で、目の前の異性をもてあましてしまったにちがいない。
今にして思えば、彼女は高校生か大学生かで、クラブとか授業とかでこの曲を歌っていた。車中でたまたま「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が聞こえたものだから、あれと思いしかしすなおに合わせたわけだ。
モーツァルトもいきな、しかし罪ないたずら仕掛けをしてくれるものだと思ったり、
おれもも少し人生経験を積んでいれば、この出会いがきっかけで何かが生まれ育ったかもしれないと思ったり・・・ところが、はからずも、「モォツァルト広場」のテーマ曲が
「アヴェ・ヴェルム・コルプス」と知って、とたんに私は若い頃のこのできごとを思い出し、ふしぎな縁を感じた次第である。
十二月三日、ビアレストラン「楽楽館」でのアニバーサリーコンサートに初めて参加した。モーツァルト愛聴者ばかりの和気あいあいたるなごやかな楽しい集いだった。
演奏が始まった瞬間、お互いのかたわらにモーツァルトがすっと身を寄せて、ある時は茶目っ気たっぷり、ある時はやさしく語りかけてくれる・・・正に人生の至福にちがいない。