home

会報より

モーツァルトの魅力・・・・・会員番号 K309 杉田明浩

古今、ヒトビトはモーツァルトを楽しみ、語ってきた。

かの太宰治も「渡り鳥」という小説の中で、青年に「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久しぶりにモォツァルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく・・・・」と語らせている。

この中でベートーヴェン以降の作曲家を堕落と談じているのは、私は暴論だと思うし、第一これらの作曲家のファンの皆様に失礼である。

ただ、音楽の本質は生活の伴奏であるべき云々の一節、そして、モーツァルトを聞き、音楽とは、こんなものだと云々には太宰という作家の完成の冴えを見て取ることが出来ると思う。

ところで、私がモーツァルトに魅了されるのは何故だろうか、と問うてみるとその音の世界に身をゆだねる時、すなわち、CDや生演奏、TV等で見聞きすることそのことこそが理由ではないだろうか。この辺り、登山家が「そこに山があるから」と言うのによく似ている。

モーツァルトはCDの再生ボタンを押したその瞬間から洋こそ私の世界へと微笑んでくれているのかもしれない。また。おそらくモーツァルトを好きになるのに理由なんかいらないものだとも思うのである。

「だって好きなんだから」といってしまえばいいような気もする。このようにモーツァルトについて書き連ねてみると、ともかく聴いてみようよという気になってくる(私はこの一文をベーム指揮ウィーンウィルの第40番、第41番のシンフォニーを聴きながら書いている。今まさに41番の終楽章のクライマックス、私の気持ちも高揚している)

とにかく、私はモーツァルトは体験することで魅了されてる作曲家だとくどいようだが声を大にして言いたい。

自分で演奏して体験すると表現の難しさに足(手?)がすくんでしまうが、CD等で聞いて体験すると、その喜びはつきない。まさにモーツァルトは私にとって(あるいは私たちにとって)かけがえのない作曲家であると言えよう。