会報より
亡き松本さんの思い出・・・・・会員番号 K596 柏木勇夫
書き出しは少しばかりの年月を遡(さかのぼ)る。
平成12年9月中旬「松本さん宅を訪ねたが、・・・」と彼の知人から問合せの電話があるようになったが、ご本人はすでに病床の人だった。彼と師範学校同期の佐々木孝さん(会員番号K476)は、2年後に発酵された昭和20年会喜寿記念誌『釜のめし』に次のように彼の経過の記録を掲載している。
9月4日、日赤入院。12月28日退院して悠久荘へ移る。そして平成13年2月1日、光峰苑へ。4月26日中通リハビリテーション病院にて治療を受ける。6月21日、退院、光峰苑へ帰る。8月29日、日赤へ緊急入院。平成14年2月6日、光峰苑へ再び帰る。3月29日、細谷病院へ入院。9月、同病院介護病棟に移る。
病気は不幸なことに脳梗塞(のうこうそく)であった。佐々木さん、松本さん、私の3人は、大正末期の生まれ、学齢は同じであったが、県北の片田舎で生まれ育った私は、師範学校は3年も下だった。戦後の教職時代から交友関係はあったが、昭和61年3月に一緒に食を退いてから親密さが加わり、何かにつけて誘い合って3人で行動するようになっていた。「モォツァルト広場」の会員になったのも、その一つの現れである。
それゆえに佐々木さんと私は、松本さんの病気の回復をひたすら願い、先に挙げた記録に見られる病院、施設を毎月1回、時には2回、見舞いをかね訪ね続けた。しかし、その都度願いは遠くなるばかりだった。病気の進行は人の識別と言葉を奪い、やがて眠った顔を見るだけになった。帰りに2人は交わす言葉もなく、心が重くなるのがどうしようもなかった。
今年5月中旬、子息彰一さんから電話で「肺炎になった。抗生物質が効かなくなったと医師に言われた」と知らされた。その後2人で見舞ったが、看護師さんから「落ち着いた」と聞き、それが続くよう祈りながら帰った。
6月12日の電話は松本さんの逝去の知らせだった。2年10ヶ月の彼の闘病生活を振り返り、霊前で心からご冥福(めいふく)を祈った。
さらに5年遡る。
平成6年は、松本さんの亡き芙美子夫人の七回忌に当たっていた。葬儀のおりに喪主の松本さんが「やがて追悼記を発刊したい」と、あいさつで語り、すでに原稿を寄せてくださった方もいる」と本人から聞かされていた。しかし、その具体化は一向に進んでいるようには見えなかった。
初夏の頃、折りを見てそのことについて「大冊の発刊はやがてのことにして寄せられている原稿を基に小冊子を編集し、包容に出席する方々に差上げたらどうでしょうか。協力は惜しまない」と話した。彼がその気になったのは幸いであった。2人だけのことだから、私の計画によって着々と進み、12月4日の法要に先立って、
体裁:A5版52ページ/表紙色:薄紫色/編集:松本秋次/書名:ラベンダーの香り−芙美子追悼記抄−/印刷:秋田オフセット印刷株式会社
が発行された。松本さんが病気になった平成12年は夫人の十三回忌に当たっていた。そこまで先を考えたわけではなかった。小冊子の発行への援助は彼への友情の発露にほかならなかった。
合掌。