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会報より

分岐点となった「アマデウス」・・・・・会員番号 K331 加藤仁

随分昔の話になるが、小生が小学校5〜6年の頃、ハイカラで多趣味なオヤジがカメラに飽き足らず当時出始めたばかりの8mm映写機に夢中になり仕事の合間を見ては田舎の四季折々の景色やら日常の生活や運動会などを撮りまくっては時々身近な人たちを集めてミニ映写会を催し−今風の映像と音が一体化した8mmビデオとは違い映像と音は別々だったから−映像だけだと味気ないからとその場面場面にマッチしそうな曲をテープレコーダーに予め録音しておき、映像と同時に曲もスタートさせ、めでたく始まりという具合にかなり手の込んだ作業をしていた中で、たまたまあれは雪深い冬の景色がスクリーンに映し出されていた時バックに軽やかなピアノ曲が流れていてそれが(もちろん後で知ったのだが・・)忘れもしないモーツァルトのK331トルコ行進曲だった。

今考えてみると雪がシンシンと降る風景とトルコ行進曲とではどう頑張っても不釣合いなのだが当時は違和感を覚えることもなく、それどころか妙に口径と音楽が溶け込んでいて不思議な感覚だったのを思い出す。

という訳で小生にとってのモーツァルトとの出会いは大分古いのだが、後年本格的にクラシックを聴き始めてからはモーツァルトはポピュラーな曲は一通り聴いてはいるもののもう少し掘り下げて・・・と思える作家ではなかった。

性格的にというか体質敵にというか小生にはベートーヴェンの音楽がなんと言っても一番オサマリがよくベートーヴェンを聴いているだけでご機嫌で後はバッハとブラームスとシベリウスがあればほぼ満足といいうこと炉で小生のレパートリーの中にはモーツァルトはあまり入り込んでいなかった。

それとモーツァルトにまつわるエピソード(彼は神の化身であって例えば自然に曲想が湧いてきてただそれをスコアに書き留めるだけでよかった。しかも修正する必要もないほど完璧だった・・・所詮人間業じゃないなどなど・・・)で固定したイメージが作られていてそこから連想するのは軽快な心地よい上品な音楽ではあるけれどそれだけに何か心に訴えかけてくるような音楽ではないな・・・と勝手に思い込んでいた。少なくとも何年か前、例の映画「アマデウス」を観るまでは・・・

もちろんこの映画は伝記そのものではなくあくまでフィクションだから当然誇張はあるだろうが、それにしても私のモーツァルト観を根底からひっくり返すほど強烈な内容であった。人間モーツァルトをあらゆる角度から徹底的に描き出し(女たらしで大酒飲み、うぬぼれ屋で自己中心、ギャンブルが大好きで・・・)つまり欲望むき出しのやりたい放題人間として表現していて、私ならずとも大分面食らったファンもいたのではないか。

だけど冷静になって考えてみるとモーツァルトの音楽の中にこれほど多種多様な音の世界があるとは(サリエリがシットするはずです・・・)恥ずかしながら映画を見てはじめて気がついた次第。

子供の頃、食べ物の好き嫌いが多く、母を困らせたものだが、その食わず嫌いの性癖がわざわいした好例としても思い出深い映画ではありました。それはともかく「アマデウス」の影響は前述のごとく小生のモーツァルト観を一変させ、少々遅きに失した感はあるものの本格的に彼の音楽と格闘しようと決意した次第、さてどこから手をつけようか。